LOGIN朔夜の指が、雪乃の頬に触れていた。
ただ、それだけだった。 なのに。 雪乃は動けなかった。 男に触れられることなど、珍しくもない。 花霞楼では、それが仕事だった。 手を握られる。 肩を抱かれる。 甘い言葉を囁かれる。 相手が何を望んでいるのかを察し、それに応える。 雪乃にとって、それは呼吸と同じくらい自然な仕事だった。 けれど。 今は違う。 「……雪乃」 朔夜が呼ぶ。 低い声。 それだけで、胸の奥が熱くなる。 「何?」 「嫌なら言え」 雪乃は目を瞬いた。 「……何が?」 「触れられることだ」 雪乃は少し笑った。 「今さら?」 「ああ」 「花魁だった女に聞くこと?」 朔夜の表情は変わらない。 「花魁だったことは関係ない」 「…………」 「今ここにいるのは、俺の客ではないだろう」 雪乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。 朔夜の手が離れようとする。 反射的に。 雪乃はその手首を掴んだ。 「……待って」 朔夜が止まる。 雪乃自身が、一番驚いていた。 今まで。 客の手を止めたいと思ったことはあっても。 離れていく手を追ったことなどなかった。 「どうした」 「……分からない」 「何が」 「あたし、自分でも分からないの」 雪乃は朔夜の手を握ったまま俯いた。 「こういうとき、いつもなら分かるのよ」 相手が欲しい言葉。 欲しい表情。 欲しい仕草。 全部。 「でも、朔夜の前だと……何をしたらいいのか分からない」 「何もしなくていい」 雪乃が顔を上げる。 「え?」 「おまえは俺を楽しませるためにいるわけじゃない」 朔夜は淡々と言った。 「笑いたくなければ笑わなくていい」 「…………」 「触れたくなければ、触れなくていい」 雪乃の指が、朔夜の袖を握る。 「じゃあ……」 「なんだ」 「触れたいときは?」 朔夜の金色の瞳が、雪乃を見る。 「触れればいい」 「……簡単に言うのね」 「難しいのか」 「難しいわよ」 雪乃は小さく笑った。 「好きな男になんて、触れたことないもの」 初めて口にした。 好きな男。 朔夜は驚きもしない。 赤面もしない。 ただ。 「そうか」 と言った。 雪乃は眉を寄せる。 「もうちょっと何かないの?」 「何が欲しい」 「知らない!」 「困った女だな」 「あなたにだけは言われたくない!」 雪乃が睨む。 朔夜はほんの少しだけ目を細めた。 笑った。 たぶん。 それを見たら、余計に悔しくなった。 「……朔夜」 「なんだ」 雪乃は立ち上がった。 一歩。 朔夜へ近づく。 「動かないで」 「ああ」 「絶対よ」 「分かった」 雪乃は背伸びをした。 そして。 朔夜の頬へ、そっと口づけた。 一瞬だけ。 すぐ離れる。 「…………」 「…………」 雪乃は自分の顔が熱くなっていくのを感じた。 「何か言ってよ!」 「動くなと言われた」 「そういう意味じゃない!」 「では、動いていいのか」 「え?」 次の瞬間。 朔夜の腕が、雪乃の腰へ回った。 強くはない。 逃げようと思えば逃げられる。 それが分かるから。 雪乃は逃げなかった。 「……雪乃」 「なに」 「もう一度聞く」 金色の瞳が近い。 「俺に触れられてもいいのか」 雪乃は息を吸った。 怖い。 今まで知らなかった種類の怖さだった。 仕事なら。 心を置いておけばよかった。 身体だけそこにいればいい。 けれど今は。 心まで全部、朔夜の前に立っている。 だから怖い。 それなのに。 逃げたくない。 雪乃は朔夜の着物を握った。 「……いい」 「本当に?」 「何度も聞かないで」 「大事なことだ」 「分かってる」 雪乃は少しだけ笑った。 「あたしが、そうしてほしいの」 朔夜の手が、雪乃の頬に触れる。 今度は雪乃から、その掌へ頬を寄せた。 「……雪乃」 「なあに」 「好きだ」 また。 何の照れもなく。 あまりにも普通に言う。 雪乃は泣きそうになった。 「……ずるい」 「何が」 「あたしばっかり、こんなに困ってる」 「俺も困っている」 雪乃が顔を上げる。 「嘘。全然そう見えない」 「見せていないからな」 「……え?」 朔夜は雪乃を見つめたまま言った。 「千年も生きれば、多少は隠せる」 初めて。 雪乃は気づいた。 朔夜の腕に、いつもより少しだけ力が入っている。 「もしかして……朔夜も緊張してる?」 「していない」 「今、絶対してる!」 「していない」 「ふふっ」 雪乃は笑った。 「なんだ」 「なんでもない」 なんだ。 この人も。 全部が平気なわけじゃない。 そう思ったら。 怖さが少し消えた。 雪乃は朔夜の胸へ額を寄せる。 「……ねえ」 「なんだ」 「今夜は、一人にしないで」 朔夜の手が、雪乃の髪を撫でた。 「ああ」 短い返事。 それだけでよかった。 雪乃は顔を上げた。 今度は。 自分から、朔夜へ口づけた。 灯りが、ひとつ消えた。 そして、もうひとつ。 夜が深くなっていく。 窓の外では、白い月が静かに浮かんでいた。 雪乃はその夜。 初めて。 誰かに求められたからではなく。 自分が求めたから。 好きな人のそばにいた。 どれほど時間が経ったのだろう。 雪乃は朔夜の胸元に頬を寄せていた。 「……朔夜」 「なんだ」 「起きてる?」 「ああ」 「妖狐って寝ないの?」 「寝る」 「じゃあ寝なさいよ」 「おまえが話している」 「じゃあ黙る」 「そうか」 「…………」 「…………」 「ねえ」 「なんだ」 「やっぱり起きてる」 「おまえが喋ったからだ」 雪乃は笑った。 こんなふうに男と話したこともなかった。 仕事が終われば、それで終わり。 朝になれば客は帰る。 次の日には、また違う男が来る。 でも。 今は、朝が来てほしくない。 「……変なの」 「何が」 「あたし、男なんて嫌いだったのに」 「今も嫌いでいい」 雪乃は顔を上げた。 「え?」 「俺以外はな」 「なにそれ」 「本音だ」 「嫉妬?」 「そうだ」 あっさり認める。 雪乃は吹き出した。 「ほんと、あなたって変」 「知っている」 「でも……」 雪乃は小さく呟く。 「朔夜なら、好き」 「知っている」 「そこはもう一回喜びなさいよ!」 「嬉しい」 「顔!」 「顔?」 「全然嬉しそうじゃない!」 「そうか」 「もう!」 雪乃は朔夜の胸を軽く叩いた。 そのとき。 「……痛っ」 雪乃が顔をしかめた。 朔夜の表情が変わる。 ほんの僅かに。 けれど雪乃には分かった。 「どうした」 「分からない。肩が……」 雪乃は身体を起こした。 左肩が熱い。 焼けるような感覚。 「……何、これ」 朔夜が雪乃の肩を見る。 その瞬間。 初めて。 朔夜の顔から、完全に余裕が消えた。 「雪乃」 「なに?」 「動くな」 「どうしたの?」 雪乃は鏡へ向かった。 左肩。 白い肌の上に。 見たことのない紋様が浮かんでいる。 雪の結晶にも。 狐の尾にも見える。 白銀の印。 「……これ」 雪乃の声が震える。 「まさか」 朔夜が立ち上がる。 「早すぎる」 「何が?」 返事がない。 「朔夜」 雪乃は振り返った。 いつも何があっても動じない男が。 初めて。 明らかに動揺していた。 「……朔夜?」 朔夜は雪乃の肩に浮かぶ紋様を見つめている。 「百夜の印だ」 雪乃の身体が固まった。 「でも……」 百夜。 九尾の妖狐に嫁いだ人間の命を奪うという、あの呪い。 「まだ、あたし……あなたの嫁になってないよ?」 「分かっている」 「じゃあ、なんで」 朔夜は答えない。 「朔夜!」 雪乃が初めて見る顔だった。 怒りでもない。 驚きでもない。 恐怖。 千年生きた妖狐が。 雪乃を見て、怯えている。 「……俺が間違えた」 朔夜が低く呟いた。 「何を?」 「契りは婚姻では始まらない」 雪乃の胸が冷える。 朔夜の金色の瞳が、雪乃を捉えた。 「心が結ばれた時点で、始まる」 白銀の紋様が。 淡く光った。 一度。 二度。 まるで。 残された時間を数え始めるように。 朔夜は雪乃の肩を見つめたまま、呟いた。 「……百夜が始まった」百夜が始まった。朔夜の言葉を聞いても、雪乃にはすぐ意味が理解できなかった。左肩に浮かんだ白銀の紋様。雪の結晶にも、狐の尾にも見えるその印は、淡い光を放っている。「……消えない」雪乃は指先で触れようとした。「触るな」朔夜がその手を止める。いつもの淡々とした声。けれど、手に込められた力が少し強い。雪乃は朔夜を見た。「痛くはないよ」「今はな」「今は?」朔夜は答えなかった。「朔夜」「……朝になったら話す」「今聞きたい」「雪乃」「百日後に死ぬかもしれないって言われて、眠れると思う?」朔夜が黙る。雪乃は彼の手を振りほどかなかった。「隠さないで」「…………」「もう、あたしの人生なんだから」その言葉に、朔夜の目が僅かに動いた。やがて。「分かった」朔夜は雪乃の前に座った。「百夜の印が現れた者は、一夜ごとに妖の気を受ける」「妖の気?」「俺の力だ」「それが、あたしの身体に入ってくるってこと?」「ああ」「それで人間の身体が耐えられなくなる」「そうだ」雪乃は肩の印を見る。「じゃあ、百日経つ前に半妖になればいいんでしょう?」「それほど簡単ではない」「どうして?」「人としての身体が、妖の力を拒む」朔夜の声が低くなる。「過去の花嫁たちも、それで死んだ」雪乃は息を止めた。「……何人?」朔夜は答えない。「朔夜」「七人」雪乃の表情が固まる。「七人……」「俺だけの花嫁ではない」「え?」「黒羽の一族全体だ」雪乃は少しだけ息を吐いた。けれど。胸の中に生まれた違和感は消えなかった。「それでも……あなたも、花嫁を迎えたことがあるの?」沈黙。雪乃の胸がざわつく。自分でも驚いた。百夜の呪いより。その質問の答えを聞くほうが怖い。朔夜は首を横に振った。「ない」「……本当に?」「ああ」「じゃあ、あたしが初めて?」「そうだ」雪乃は思わず胸を撫で下ろした。そして。すぐに我に返る。「って、何安心してるのよ、あたし」「嫉妬か?」「違う!」「そうか」「ちょっとくらい否定させなさいよ!」朔夜の表情は変わらない。雪乃はむっとして、布団へ座り直した。「でも、変ね」「何がだ」「あなたは千年生きてるんでしょう?」「ああ」「その間、一度も好きな人がいなかったの?」「いなかった」
朔夜の指が、雪乃の頬に触れていた。ただ、それだけだった。なのに。雪乃は動けなかった。男に触れられることなど、珍しくもない。花霞楼では、それが仕事だった。手を握られる。肩を抱かれる。甘い言葉を囁かれる。相手が何を望んでいるのかを察し、それに応える。雪乃にとって、それは呼吸と同じくらい自然な仕事だった。けれど。今は違う。「……雪乃」朔夜が呼ぶ。低い声。それだけで、胸の奥が熱くなる。「何?」「嫌なら言え」雪乃は目を瞬いた。「……何が?」「触れられることだ」雪乃は少し笑った。「今さら?」「ああ」「花魁だった女に聞くこと?」朔夜の表情は変わらない。「花魁だったことは関係ない」「…………」「今ここにいるのは、俺の客ではないだろう」雪乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。朔夜の手が離れようとする。反射的に。雪乃はその手首を掴んだ。「……待って」朔夜が止まる。雪乃自身が、一番驚いていた。今まで。客の手を止めたいと思ったことはあっても。離れていく手を追ったことなどなかった。「どうした」「……分からない」「何が」「あたし、自分でも分からないの」雪乃は朔夜の手を握ったまま俯いた。「こういうとき、いつもなら分かるのよ」相手が欲しい言葉。欲しい表情。欲しい仕草。全部。「でも、朔夜の前だと……何をしたらいいのか分からない」「何もしなくていい」雪乃が顔を上げる。「え?」「おまえは俺を楽しませるためにいるわけじゃない」朔夜は淡々と言った。「笑いたくなければ笑わなくていい」「…………」「触れたくなければ、触れなくていい」雪乃の指が、朔夜の袖を握る。「じゃあ……」「なんだ」「触れたいときは?」朔夜の金色の瞳が、雪乃を見る。「触れればいい」「……簡単に言うのね」「難しいのか」「難しいわよ」雪乃は小さく笑った。「好きな男になんて、触れたことないもの」初めて口にした。好きな男。朔夜は驚きもしない。赤面もしない。ただ。「そうか」と言った。雪乃は眉を寄せる。「もうちょっと何かないの?」「何が欲しい」「知らない!」「困った女だな」「あなたにだけは言われたくない!」雪乃が睨む。朔夜はほんの少しだけ目を細めた。笑った。たぶん。それを見たら、余計に悔
翌朝。花霞楼は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。遊女たちが廊下の隅に集まり、小声で話している。「黒羽さまがいらしたって」「雪乃姉さんを身請けするって、本当?」「でも鷹司さまが許さないって……」雪乃は鏡台の前で、黙って紅を引いていた。いつもと同じ化粧。いつもと同じ髪。いつもと同じ、花霞楼の雪乃。けれど。今日が最後になるかもしれない。鏡の中の自分を見つめる。「……最後、か」昨日までなら、そんなことを考えるだけで怖かった。花霞楼を出たら、自分に何が残るのだろう。男を楽しませる術。酒を注ぐ手つき。客が欲しい言葉を見抜く目。ここで身につけたものは、外の世界で何になるのだろう。けれど今は。不思議と、少しだけ楽しみだった。小雪がいる。そして。「……朔夜」名前を口にすると、胸の奥がほんの少し温かくなる。「何考えてるのよ、あたし」雪乃は自分の頬を軽く叩いた。今日は恋に浮かれている場合ではない。まず、自分の人生を取り戻す。そのための日だ。大広間には、すでに三人の男がいた。花霞楼の主人。鷹司蓮。そして黒羽朔夜。女将が雪乃を迎える。「来たね」「はい」雪乃は座敷へ入り、静かに座った。仕事中の一人称に戻す。「お待たせいたしました」鷹司が薄く笑った。「相変わらず、こういう席では完璧だな」「お褒めいただき、ありがとう存じます」「褒めてはいない」「まあ。残念でございます」鷹司の眉が動く。朔夜は何も言わない。ただ雪乃を見る。それだけで、なぜか落ち着いた。主人が咳払いをした。「では、雪乃の身請けについてですが……」鷹司が一枚の証文を畳へ置いた。「話すことなどない」昨日、雪乃が見せられたものだ。新たな借金。保証人、鷹司蓮。「この女には、まだこれだけの負債がある」朔夜は証文を一瞥した。「偽物だ」座敷が静まり返った。鷹司の目が細くなる。「何?」朔夜は懐から、別の帳簿を取り出した。「三年前からの入金記録だ」雪乃が目を見開く。「それ……」「小雪の家から回収した」帳簿を開く。雪乃が花霞楼から送り続けていた金。鷹司側へ渡った金。借金として差し引かれた額。すべて記録されている。朔夜が淡々と言った。「元金も利息も、とっくに払い終わっている」鷹司は鼻で笑った。「だか
「百夜目まで、生きた花嫁はいない」 鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。 雪乃は朔夜を見つめた。 いつもと変わらない顔。 静かな金色の瞳。 だからこそ、怖かった。 「……朔夜」 返事はない。 「嘘だって言って」 小雪が雪乃の袖を握る。 朔夜は、ゆっくり目を伏せた。 「嘘ではない」 雪乃の胸が冷えた。 「じゃあ、本当なの?」 「ああ」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」 「正確には違う」 鷹司が鼻で笑った。 「大差あるまい」 朔夜の視線が鷹司へ向く。 「黙れ」 声は低かった。 怒鳴ったわけではない。 それなのに、空気が凍ったように感じた。 鷹司も笑みを消す。 雪乃は立ち上がった。 「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」 朔夜を見る。 「説明して」 「ああ」 「最初から全部」 「分かった」 朔夜は座り直した。 雪乃も、その正面へ座る。 小雪は姉の隣から離れなかった。 鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。 朔夜が口を開いた。 「九尾の一族には、古い契りがある」 「契り?」 「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」 雪乃は黙って聞いた。 「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」 小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。 「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」 「必ず死ぬわけではない」 朔夜が言った。 「助かる方法はある」 鷹司が薄く笑う。 「成功した者はいないがな」 「鷹司さま!」 小雪が睨んだ。 蓮が眉を上げる。 「何だ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「事実を言っただけだ」 「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」 「怖いなら嫁がなければいい」 「それはそうですけど」 小雪は少し考えてから、 「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」 と言った。 「…………」 蓮の眉間に皺が寄る。 「おまえにだけは言われたくない」 「どうしてですか?」 「もういい」 「そうですか」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。 蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。 雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。 だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。 「助かる
「お姉ちゃん、もう少し食べて」 「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」 「お姉ちゃんだって!」 「私はいいの」 「よくない!」 小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。 再会してから、まだ一刻も経っていない。 それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。 「本当に、困ってることはない?」 「ないよ」 「お金は?」 「黒羽さまが、取り返してくれたから」 小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。 少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。 まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。 雪乃は眉を寄せた。 「ねえ、朔夜」 「なんだ」 「あなた、小雪に何をしてくれたの?」 「必要なことをしただけだ」 「それじゃ分からないのよ」 小雪がくすりと笑った。 「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」 「怖そうは余計だ」 「あ、ごめんなさい」 「別にいい」 雪乃は朔夜をじっと見た。 「……小雪には優しいのね」 「おまえの妹だからな」 「それだけ?」 「ああ」 あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。 小雪は首を傾げる。 「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」 雪乃がむせた。 「ちょ、小雪!」 「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」 「そうなの?」 雪乃が朔夜を見る。 朔夜は平然としていた。 「知らん」 「知らんって何よ!」 「自分の声など聞かん」 「そういう話じゃないでしょ!」 小雪がまた笑う。 その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。 ああ。 この子が笑っている。 それだけでいい。 花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。 雪乃はそっと小雪の手を握った。 「……元気でいてくれて、本当によかった」 「お姉ちゃん」 「もう二度と、あんな男に近づかせないから」 小雪の表情が曇る。 「鷹司さま……?」 「そうよ」 雪乃の声が低くなった。 「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」 「でも――」 「許さない」 雪乃はきっぱりと言った。 花魁として客の前にいるときとは違う。 姉として
雪が降っていた。まだ雪乃が幼かった頃。山道の奥から、か細い鳴き声が聞こえた。「……なに?」雪乃は足を止めた。家へ帰る途中だった。母には、暗くなる前に戻りなさいと言われていた。それでも、その声を無視することができなかった。木々の間を進む。そこで見つけたのは、一匹の白い狐だった。真っ白な毛並み。金色の瞳。そして、後ろ脚には鉄の罠が食い込んでいる。「かわいそう……」雪乃は狐のそばにしゃがみこんだ。狐が牙を剥く。「大丈夫。何もしないよ」もう一度、低く唸る。「怖いよね」雪乃は自分の羽織を脱いだ。「でも、このままだと死んじゃうよ」狐はじっと雪乃を見ていた。雪乃は震える指で、鉄の罠に手をかけた。硬い。子どもの力では簡単には開かない。何度も指を挟みそうになりながら、雪乃は必死に力を込めた。「……もうちょっとだから」ようやく罠が外れる。白狐は飛び退いた。その脚から、赤い血が雪へ落ちた。雪乃は羽織を裂き、狐の脚に巻いた。「これで少しはいいかな」狐は逃げなかった。ただ、金色の瞳で雪乃を見つめている。「もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ」雪乃は笑った。「今度会ったら、ちゃんと逃げるんだからね」狐は一度だけ、雪乃の手に鼻先を寄せた。そして雪の中へ消えていった。それが、雪乃の記憶に残る白狐だった。「……あの狐が、朔夜?」翌朝。雪乃は布団の上で天井を見つめていた。眠れなかった。黒羽朔夜。白銀の髪。金色の瞳。言われてみれば、あの日の狐と同じ色だった。「いやいや……」雪乃は起き上がった。「狐が男になるわけないじゃない」口に出してから、昨夜見たものを思い出す。屏風に映った、白い尾。「……いや、なるの?」自分で問いかけても、答えてくれる者はいない。雪乃は頭を抱えた。花霞楼には、怪談好きの客も来る。狐が人に化ける話。狸が旅人を騙す話。山には人ならざる者が棲むという昔話。それを本気で信じたことなどなかった。なのに。朔夜だけは。「……人間じゃないっていうの?」襖の向こうから声がした。「雪乃姉さん。黒羽さまがお見えです」雪乃は顔を上げた。「また!?」昨日、明日来ると言っていた。確かに来るとは聞いていた。それでも早すぎる。「朝から何なのよ、あの男……」文句を言いながら、雪乃